「雪の上を走る丸木舟」と「海の名前のついた鳥居」そして「伊波ヒメ」と「伊波レヒコ」
毎度のことながら、なかなかブログを更新できずに・・・すみません。
「奥三面遺跡群」に辿り着いて・・・このあたりのことを調べたいと思っているのですが、なかなか時間がとれず・・・
でも不思議なことに、今の仕事にも妙にリンクしてくるところがあり・・・
先日、仕事で祝瓶山の麓・長井市に行くことがあり、車で走っていると、「なんだかここは好きな場所だな・・・」と思うところがありました。
山の麓に沿った場所で、東の方へと地形は少しずつ下っていき(扇状地?)「最上川」へとたどりつくようです。
そのゆるやかな斜面が、森に近いけれども開けてもいて、眺めも良く、なんとも心地のいい感じだったのです。
こんなところに家があったら気持ちがいいだろうなあと思いながら・・・
そうして・・・しばらく車で走っていると「古代の丘資料館」という看板があり・・・
なんと!ここも縄文時代の遺跡がみつかったところだというのです。
祝瓶山や大朝日岳などの朝日山系の麓に位置するここからも、旧石器時代・縄文時代・弥生時代にわたる生活跡がみつかっているそうです(「長者屋敷遺跡」)
・・・昔もこのような場所だったかはわかりませんが、とても住み心地が良さそうな感じがする場所なのです。なるほどなぁと思います。
・・・とすると、朝日山系一帯には、「旧石器時代」からたくさんの人々が暮らしていたことがわかります。
そして「縄文時代」「弥生時代」へと、その暮らしは綿々と続いていたようです。
「奥三面遺跡群」と「長者屋敷遺跡」の人たちはどんな交流があったのか・・・場所が少し離れているので、それぞれ違う生活があったのか。それとも同じ人たちが行き来していたのか・・・興味は尽きませんが・・・
どちらにしても、この場所では、17000年前の「旧石器時代」から「ある程度の規模」で人々は暮らしていたのです。
実際にその場所に立ってみると・・・確かにここで人々は暮らしていたのだろうと・・・より具体的に感じられて、17000年前のことでも今につながっている感覚になってしまいます。
その生活はどんなものであったのか・・・
ukikusa9 さんからコメントをいただきましたが、民族文化映像研究所の「奥三面集落」の映像を見てみると、きっとヒントがあるのだろうと思います。
私は、奥三面の人たちが「丸木舟」をつくる映像をみたことがあるのですが(ネットで調べると出てきますよ)、すごいです。山の奥の大きな木を斧一本で切り倒し、そして溝を切り込んでくさびを打つと、木の目に沿って剥がれ平らな面がつくられていくという・・・木の性質を良く知ったあざやかな手さばきで「丸木舟」は完成します。
そしてこの映像のなかに・・・完成した「丸木舟」を雪の上を滑らせて舟おろしする様子があるのですが・・・私は、なぜかこのシーンに惹きつけられたのです・・・
「雪の上をすべって降りていく舟」・・・なんだろう・・・とても不思議なのですが・・・
何かを思い出せそうで思い出せない感じ・・・なのです。
「雪」というのも、何か重要に思います。キーになりそうです。
(だから東北?)
(いや、古代、ここに「雪」があったのだろうか?)
雪の上をすべって行く舟の姿・・・
なぜか・・・このような光景を見たことがあるような気がしてしまう・・・。
どこかに届けようとしている?
そうか・・・
鶴岡の温海(あつみ)で取材していたときに出逢った「海の名前」のついた「杉の葉で覆われた大きな鳥居」。
山の神様を迎えるための鳥居と言っていたけれど・・・
山からやってくる「丸木舟」は、その鳥居をくぐって、海人に迎えられた・・・?
・・・そして海へと船出した?
いえ、これも私の勝手な妄想ですけれども(笑)
でもなんだか、心がざわざわしてしまいます。
「雪の上を走る舟」
そこには・・・誰かが乗っていたかもしれませんね。
山の幸ものせて。
七福神の乗った宝船のような・・・
それが海人たちに迎えられた・・・
これが・・・
「伊波ヒメ」と「伊波レヒコ」の出逢いに・・・つながる気が・・・するのです。
(続きます)