「信夫」…そして「西行」「頼朝」「義経」「銀の猫」
この間、イネハポさんという方からコメントをいただいて…イネハポさんは秩父や東北にまつわる歴史をブログに書かれていて…興味深くて、少しずつ読ませていただいています。
私の、この妄想歴史旅も…「伊豆山神社」から始まり…これまで私が住んだり縁のある「奈良」「京都」「高野山」などと繋がり…
そして今「東北」に居ますので、きっとこの「東北」とも繋がると思うのですが…
「東北」に来て、何か縁を感じるのは「信夫」です。「飯坂」、「吾妻山」の麓。
…そして「白竜湖」、「蔵王」…まあ…「温泉」つながり…ということもあるのですが(笑)
「羽黒山」も凄いところです…実際にその場にいってみると…「崇峻天皇」は「蘇我馬子」には殺されていない。逆に「蘇我馬子」が「蜂子皇子」を「羽黒山」へ逃がしたのでは? と感じました。
そして…「湯殿山」と「月山」の関係は…興味深いです。
「月山」を祀るために「湯殿山」ができたような…そんな感じがしています。
私が繋がる(というか、意識する)のは…まずは縄文時代。「青い姫」にまつわること。
その次が、「大化の改新」の頃の時代。
その次が、「壬申の乱」の頃。
おおまかに言うと、この4つの時代です。
何かとても気になるのです。
これらは、時代は違うのですが…一本の道で、繋がっている…と思うのです…。
「義経」でいえば…以前、調べていた時に…
『吾妻鏡』に、「西行」が、東大寺の再建の金調達のため奥州へ旅立つ時に、鎌倉の「頼朝」のところへ寄ったとある。でもふたりの話は「弓馬」や「歌道」のことだったといい、別れ際、「頼朝」は「西行」へ「銀でできた猫の置物(?)」を贈るが、「西行」はそれをすぐに道端で遊んでいた子どもにあげたという。
それは1186年。「義経」が死ぬ3年前のこと。
それを知った時…私はとても…この出来事が…何かひっかかったのです。
「西行」と「頼朝」は…実際はどんな話をしたのでしょうね?
私には…「頼朝」と「義経」とは…
史実に書かれているような関係とは…違う感じがするのです。
…それで、私が「東北」に住むようになって、しばらくして、「中尊寺」に行ったことがあります。
ちょうど「五月雨」の時期で…やわらかな雨がとても美しく…
…ここは…とても穏やかで…
そう、前回のブログで書いた、箱根の「九頭龍神社」の近くのホテルの庭…庭と湖が、境目がなく、す~っと繋がっていく…それと同じような「池」があるのです。
まさに「平泉」という場所です。
その当時は、大きな屋敷というか、建物もあったのが…今は何もないのですが…
その跡が、また…とても厳かなのです。
「兵どもが夢の跡…」
ちょうどその日は、その場所でも「五月雨」がやさしく降りそそぎ…それはそれは美しい光景でした。
昔、歌会をしたという、細い川が流れている場所があって…そこも、とても厳かなところでした。
その後に、「義経」が最期を遂げたという「高館義経堂」へ行ったのですが…
16:30までは開いているということで、その15分前には滑り込んだのですけど…なんと、もう閉まっていたのです。
それをまず、駆け出して行った子どもたちが知って「お母さ~ん、閉まってるよ~」って叫んで教えてくれたんですが…その時私は、
「え~、死んじゃったの!!」
って、返事していたのです。
本当は、「え~、閉まってるの!」って言ったつもりだったんですけど…。
その、思わず自分の口から出た言葉に、自分自身が驚いたんですが…(笑)
なんとなく、その後で思ったのが…
きっと誰かここで、昔… 同じその言葉を叫んだ人がいたんじゃないかと…
…伝えることはできたのでしょうか?
「頼朝」の「銀の猫」の意味は…?
「西行」は「信夫」…
その叫びは…「西行」?
それとも… … …「頼朝」…の声?