機織姫を探して…

今、私はひとりの姫を探しています。 その姫と…私は伊豆の山ですれ違ったようです。 …それからいろいろなことがつながり始めました…

いろんなことが繋がって行きます…「青衣」の「露草」は「月草」「鴨頭草」

(またまた…いろいろつぶやきますけれど…今回はちょっと長くて、意味がわかりづらいところもありますが…きっと後で重要になってくると思われることなので…メモとして残しておきます…)

 

「富神山(とがみやま)」の「ストーンサークル(環状列石)」に行ってから、「『日』と『月』が交叉するところ…」このことに私は何か気持ちがひっかかっているのですが…

 

もう少し詳しく説明すると…

 

それを観測することで「日蝕」「月蝕」がわかる…

…そして…なんとなく…

「日」はいつも出ていますが、「月」は一ヶ月に一度見えなくなりますよね。

新月」の日です。

…その「月」が見えないときの「月」の動き(方角)を知りたかったような…

そんな気がするのです。(どうしてなのかは、まだよくわかりません(泣))

 

そして…その、「日」の動きに「月」の動きが重なるときが…

何か…とても大切だった感じがするのです。

 

そんなことを思いながら…私が前から気になっている「岩船」の場所で、その「日」と「月」の動きを調べていたのです。

 

すると…「3月2日」の「日」の動きが面白かったのです。(その理由は…ちょっと今は伏せます)(これは今の暦のことなので、当時もそうだったかはわからないのですが…)

それで…この日に「日蝕」だった年はあったのだろうか…そんなことを考えて調べていると…

なんと!推古36年3月2日に日蝕があって、その5日後に推古天皇が亡くなっているというではありませんか!

 

え~!そんなことがあったんだ!

 

知りませんでした。…でも正確に言えば、太陽暦太陰暦の違いがありますから、今の3月2日ではないのですけれど…

 

でも、その「3月2日」がきっかけで…そんな事実につきあたったのです。

とても驚きました。

 

推古天皇の死の前に「日蝕」があった…。

なんだかこれって…アマテラスの天岩戸神話と似ているような…。

 

そんな思いもありましたが、

…もうひとつ、「3月2日」というと…私は「お水取り」を思い出すのです。

 

東大寺修二会(お水取り)

東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)は、天平勝宝4年(752)、東大寺開山良弁僧正(ろうべんそうじょう)の高弟、実忠和尚(じっちゅうかしょう)が創始された。以来、平成24年(2012)には1261回を数える。

修二会の正式名称は「十一面悔過(じゅういちめんけか)」と言う。十一面悔過とは、われわれが日常に犯しているさまざまな過ちを、二月堂の本尊である十一面観世音菩薩の宝前で、懺悔(さんげ)することを意味する。

修二会が創始された古代では、それは国家や万民のためになされる宗教行事を意味した。天災や疫病や反乱は国家の病気と考えられ、そうした病気を取り除いて、鎮護国家、天下泰安、風雨順時、五穀豊穣、万民快楽など、人々の幸福を願う行事とされた。

東大寺のながい歴史にあって、二度までもその大伽藍の大半が灰盤に帰してしまった時ですら、修二会だけは「不退の行法」として、1250有余年もの間一度も絶えることなく、連綿と今日に至るまで引き継がれてきたのである。

この法会は、現在では3月1日より2週間にわたって行われているが、もとは旧暦の2月1日から行われていたので、二月に修する法会という意味をこめて「修二会」と呼ばれるようになった。また二月堂の名もこのことに由来している。

行中の3月12日深夜(13日の午前1時半頃)には、「お水取り」といって、若狭井(わかさい)という井戸から観音さまにお供えする「お香水(おこうずい)」を汲み上げる儀式が行われる。また、この行を勤める練行衆(れんぎょうしゅう)の道明かりとして、夜毎、大きな松明(たいまつ)に火がともされる。このため「修二会」は「お水取り」・「お松明」とも呼ばれるようになった。

 

この東大寺修二会の「お水取り」のために…

3月2日、若狭で「お水送り」という行事が行われるのです。

 

3月12日に奈良東大寺二月堂で行われる「お水取り」に先がけて、毎年3月2日に行われる小浜市神宮寺の「お水送り」は、奈良と若狭が昔から深い関係にあったことを物語る歴史的な行事です。  

奈良のお水取りが終わると春が来る。関西の人々は、毎年この春の兆しを待ちわびます。この奈良東大寺二月堂のお水取り(修ニ会の「お香水」汲み)は全国にも有名な春を告げる行事ですが、その「お香水」は、若狭鵜の瀬から10日間かけて奈良東大寺二月堂「若狭井」に届くといわれています。(両市は、この天平時代からの1,200年の歴史の輪廻により、昭和46年より姉妹都市盟約を締結しています。)  

「お水送り」は午前11時、下根来八幡宮で営まれる山八神事から行事はスタート。神宮寺僧と神人がカシの葉に息を吹きかけ、手を交差させて後ろに投げます。これは、体内に宿った悪霊を振り払うためです。それから赤土をお神酒で練ったものをご祈祷してからなめて、残り土で柱に「山」と「八」の字を書き込みます。  午後1時からは神宮寺境内において弓打神事。紫の装束に身を包んだ氏子代表が古式にのっとり、30メートルほど離れた的に向けて弓を放ちます。  午後5時半ごろ、白装束の僧がホラ貝を吹きながら山門をくぐり入場します。  午後6時からお堂で修二会を営み、「だったん」の行へ。7メートルもあろうかと思われる巨大松明を「エイッ、エイッ」とのかけ声とともに振り回します。  いよいよ大護摩に火がともされると、炎が水面に燃え広がったようになります。住職が送水文を読み上げ、邪気払いをし、香水を遠敷川に流す。香水は10日後、奈良東大寺の「お水取り」で汲み上げられます。

 

以前、私は、三方五湖の鳥浜貝塚でみつかった「うんちの化石」を番組撮影のためにお借りしに、若狭へ行ったことがあります。

縄文時代の人間のうんちですよ! よくぞ残っていたと思います(笑)。

その帰り道でした。「昨日来ていただければ、『お水送り』がみられたんですけどね…」「奈良の『お水取り』の水はここから送られるんですよ」…そしてその場所へつれていってくれたのです。

「遠敷川」の「鵜の瀬」というところに小さな祠がありました。この場所で「お水送り」の行事は行われるそうです。

近くの資料館に模型があって、「お水送り」の様子が再現されていたのですが、その白装束の行列は独特で…そして夜おこなわれるので暗闇のなかの松明の火もとても印象的で…それまでも東大寺の「お水取り」には一度行ってみたいと思っていたのですが、今度実際に行くときは、この「3月2日」の若狭の「お水送り」からみて行こうと思ったことを思い出します。

 

…そのようなことがあって…私の中には「3月2日」といえば「若狭のお水送り」が印象に残っていたのですけれど…

…その若狭の「お水送り」から続く「東大寺の修二会(お水取り)」といえば…私には「青衣の女人」なのです。

 

大導師作法と過去帳読誦

初夜と後夜の悔過は「大時」といわれ特別丁寧に行われ、悔過作法の後に「大導師作法」「咒師作法」をおこなう。

大導師作法聖武天皇、歴代天皇東大寺に縁のあった人々、戦争や天災に倒れた万国の人々の霊の菩提を弔うとともに、現職の総理大臣以下の閣僚最高裁長官などの名を読み上げ、その働きが天下太平、万民豊楽をもたらすよう祈願する。

初夜の大導師作法の間には「神名帳」が読誦される。これも神道の行事である。1万3700余所の神名が読み上げられ呼び寄せる(勧請)。お水取りの起源となった遠敷明神は釣りをしていてこれに遅れたと伝えられている。

また3月5日と12日の2回過去帳読誦が行われる。過去帳では聖武天皇以来の東大寺有縁の人々の名前が朗々と読み上げられる。

これには怪談めいた話がある。鎌倉時代に集慶という僧が過去帳を読み上げていたところ、青い衣を着た女の幽霊が現れ、

「など我が名をば過去帳には読み落としたるぞ」

と言った。なぜ私の名前を読まなかったのかと尋ねたのである。集慶が声をひそめて「青衣の女人(しょうえのにょにん)」と読み上げると女は満足したように消えていった。いまでも、「青衣の女人」を読み上げるときには声をひそめるのが習わしである。

 

このブログでも以前書いたように、私は「青い姫」…が気になっています。

今、私が探している「機織姫」は…この「青い姫」の系譜だと思っています。

この「青衣の女人」も…同じ系譜なのかもしれない…。

 

 

「岩船」の3月2日からつながったのは…「蘇我馬子」「天武天皇」「葛城」「空海」。

そして「推古天皇」と死の5日前の3月2日の「日蝕」…「推古天皇」とは何者?何かが投影されていないだろうか…。

3月2日の若狭の「お水送り」…ここから東大寺修二会の「お水取り」のお香水は送られる。「遠敷(おにゅう)明神」「修二会」「青衣の女人」…。

 

…これらのことが…次々と…つながって行ったのです。

 

(…そして、東大寺といえば…私のなかでは「西行」「頼朝」「義経」「銀の猫」にもつながっていくのですが…これは追々…」

 

「青衣」とは…もしかしたら「露草」で染めた衣なのかもしれません。

「まだ陽がのぼりきらない朝露の立つ中で『露草』は摘まれて、染や織の下絵を描くのにつかわれる」…夜明けなのですね。「暁」「あかつき」。

…なぜ下絵なのか…「露草」の青は「水」につけると消えてしまうのです。

 

「露草」のことを万葉の頃は「月草」と呼んでいた…あぁ、やっぱり「月」なのだ。

…そして、「鴨頭草(つきくさ)」とも!!  …え!…「鴨」なのですか!